誰かが見ている【ショートショート】
孤独だと思っていたのは、きっと勘違いだ
町内放送の音が、夕方の静寂を破った。
「隣人とのつながりを大切にしましょう。助け合いが、安心の街を作ります」
僕はその声を聞き流しながら、窓を閉めた。
越してから半年、この街に自分が根付いている感覚はまったくなかった。
人との接触もなく、ただ存在しているだけ。
部屋の中で、僕は誰からも気づかれないままに過ごしていた。
夕方の光が部屋に差し込み、壁に薄い影を作る。
その影が少しずつ伸びる様子を見つめながら、僕は深く息をついた。
誰とも繋がらない時間に、なぜか妙な安堵感を覚える自分がいた。
玄関のチャイムが鳴った。
予想していなかった音に、胸が少し高鳴った。
ドアを開けると、隣に住むおばあさんが立っていた。
「最近、お隣さんを見かけなくてね…」
彼女はぽつりと言った。
「隣人のことは気にしたことがなかった」と言おうとして言葉を飲み込む。
実際、僕は彼らがここに住んでいるという実感すらなかったのだ。
「一緒に見に行ってもらえないかしら?」
おばあさんは静かに頼んだ。
僕は、どこか非現実的な感覚に包まれながら、彼女についていった。
隣家の玄関は半開きだった。
軽く扉を押し開けると、室内には整然とした家具が並び、しかしそのすべてがどこか停止した時間の中に置かれているようだった。
「誰もいないみたいですね」と僕は言った。
言葉が自分の口から出た瞬間、その響きがどこか遠くから聞こえるように感じた。
おばあさんは返事をしなかった。
ただ静かに部屋の中を見つめていた。
テーブルの上には未開封の手紙が山積みになっていた。
すべて同じ差出人からのものだった。
「これ…?」
僕はおばあさんに尋ねたが、彼女は一瞬視線を逸らし、わずかに首を振った。
ふと、テーブルの端に一枚の紙が落ちているのに気づいた。
そこには、大きな文字で「見ている」とだけ書かれていた。
僕はその言葉の意味を解釈しようとしたが、何も浮かんでこなかった。
ただ、何か不快なものが胸の中でうごめき始めた。
「帰りましょう」とおばあさんが言った。
その声は、あまりにも冷静すぎて、不自然に聞こえた。
帰り道、僕は何も話せなかった。
「見ている」という言葉が頭の中を巡り続けていた。
誰が?
何を?
そして、今もその視線は僕に向けられているのか?
胸の奥で何かがじわじわと広がっていく感覚があった。
その夜、再び町内放送が響いた。
「助け合いが、安心の街を作ります」
だが、その言葉はまるで遠くからの囁きのように、僕の耳にはもう届かなかった。
今、僕の頭を占めているのはただ一つの考え――「誰かが僕を見ている」ということだけだった。
僕はただ一つのことに気づいた。
何かが、確かに僕を「見ている」と。