ブランドの魔法【ショートショート】
佐藤直哉(Naoya sato-)
コヨーテの小噺
ヒラカワはいつも忙しい日々に追われていた。
サラリーマンとして長時間働き、帰宅すると疲れ果てる。
それでも、彼には心の支えがあった。
それがベランダの小さな農場だった。
都会の喧騒から逃れ、自分だけの空間で野菜を育てることは、ヒラカワにとって唯一の癒しだった。
トマト、キュウリ、スイカ。
どれも満足な収穫が得られたことはなかったが、ヒラカワは諦めなかった。
それはまるで、彼自身の人生に対する挑戦のようだった。
何度失敗しても、また新しい種を蒔く。
都市農業は彼のささやかな反抗であり、希望でもあった。
ある朝、ヒラカワはベランダを見て驚いた。
一本のキュウリがベランダの柵を超え、隣の階の窓に向かって伸びていたのだ。
あまりにも立派に育ったそのキュウリは、まるで都市の無機質な壁を越えて、新しい何かを掴もうとしているようだった。
ヒラカワは少し考えたが、あえてそのままにしておいた。
「どうなるか見てみよう」と、わくわくする気持ちがあった。
翌朝、キュウリは消えていた。
代わりにベランダには、一通の手紙が風に揺れていた。
「素晴らしいキュウリをありがとう。おかげで美味しい朝食になりました」
その文字はまるで、ずっと無視されてきたヒラカワの努力が初めて報われたかのようだった。
彼は手紙を読みながら、自然と微笑みが浮かんだ。
「都市農業も、捨てたもんじゃないな…」とつぶやき、心の中で新たな種が芽吹くのを感じた。
そしてヒラカワは、もう一度キュウリを隣に届けるべく、新しい苗を買いに出かけた。
「次はきっと、隣人に肥料代も請求しよう」と小さく笑いながら。