逃げ続けた男の夜【ショートショート】
責任からは逃げられても、闇からは逃げられない
サイトウは、仕事に対して無関心なサラリーマンだった。
デスクには未処理の書類が山積みだが、「明日やればいい」と軽く考えている。
責任を回避し、楽をすることが彼の日常だった。
その夜も、定時になると同時に席を立った。
「お先に失礼します」と形式的に告げ、エレベーターに乗り込む。
だが、ドアが閉まる直前に上司の声が響いた。
「サイトウ君、急ぎの案件があるんだが——」
「すみません、今日は外せない用事がありまして!」と嘘をつき、その場を立ち去った。
エントランスを出た瞬間、ビル全体が闇に包まれた。
停電だ。
周囲の街灯も消え、不気味な静寂が訪れる。
「こんなことって…」
スマートフォンを取り出すが、画面は真っ暗だ。
電源が入らない。
遠くから足音が聞こえてくる。
カツ、カツ、と規則的な音が近づいてくる。
「誰かいますか?」
呼びかけるが、返事はない。
足音は徐々に速く、大きくなる。
不安が募り、サイトウはビルに戻ろうとするが、自動ドアは反応しない。
非常口も鍵がかかっている。
「なんで開かないんだ!」
焦りと恐怖が胸を締め付ける。
「逃げてばかりでいいのか…」
突然、頭の中に声が響く。
「誰だ!? 何なんだよ!」
振り返るが、闇しか見えない。
「お前自身だ。責任から逃げ続ける限り、この闇からは出られない」
「黙れ!」
サイトウは耳を塞ぐが、声は止まらない。
サイトウは全身から冷や汗が滴るのを感じた。
背後の足音は消えたが、重苦しい空気が彼を包む。
「非常階段…そうだ、防災訓練で聞いた!」
普段は無視していた情報を思い出し、壁伝いに進む。
手探りで進む中、指先に冷たい金属の感触が伝わる。
非常階段のドアだ。
しかし、ドアは錆びついていて開かない。
「嘘だろ…!」
必死に力を込めると、ギギギ…と音を立ててドアが開いた。
階段は下へと続いているが、真っ暗で何も見えない。
足を踏み出すのが怖い。
「進め…自分の足で」
再び内なる声が響く。
意を決して一歩を踏み出す。
階段は異様に長く、降りても降りても終わらない。
足元に何かが絡みつく。
粘つく感触に息を呑む。
「くっ…何だこれは?」
触れてみると、それは古い蔦のようだ。
突然、背後から冷たい風が吹き抜ける。
「戻るな…進め…」
風に紛れて声が囁く。
「俺は何から逃げているんだ…?」
サイトウは自問する。
自分の無責任な態度、逃げ続けてきた現実。
それらが闇となって彼を追い詰めているのかもしれない。
「もう逃げない!」
彼は決意し、足を速める。
やがて、階段の下に微かな光が見える。
希望の光だ。
最後の一段を降りると、大きな扉が現れた。
重い扉を押し開けると、眩しいほどの朝日が彼を迎えた。
新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込む。
振り返ると、そこにはただの非常口があるだけで、先ほどの闇は嘘のようだ。
「自分自身と向き合ったんだな…」
彼は静かに呟いた。
翌朝、サイトウは誰よりも早く出社し、積極的に仕事に取り組んだ。
デスクの上の書類に目を通し、一つ一つ丁寧に片付けていく。
同僚たちは驚き、「どうしたんだ、サイトウ?」と尋ねる。
彼は穏やかな笑みを浮かべて答えた。
「もう逃げないことにしたんだ。自分の力で道を切り開くよ」