翻訳の果て【ショートショート】
アプリで会話、心までは翻訳できない
シンジは幼いころから「外の世界」に強く憧れていた。
彼は地方の小さな町で育ち、保守的で閉鎖的な人間関係に息苦しさを感じていた。
国際的なドラマや映画を観るたびに、そこに描かれる自由で広大な世界に夢を見ていた。
彼にとって、国際結婚はその憧れを実現するための象徴だった。
「俺は、狭い日本なんかには収まらない。アリスと一緒に、もっと広い世界を生きるんだ!」と、彼は友人たちに語り、自分の選択に絶対的な自信を持っていた。
シンジにとって、アリスとの結婚は「外の世界」への切符であり、翻訳アプリはその夢を現実にするための武器だった。
彼は、アプリがあれば、言葉の壁など存在しないと本気で信じていた。
しかし、彼が本当に向き合っていたのは「外の世界」ではなく、自分の理想に閉じこもった「内の世界」だった。
一方、アリスは異なる視点を持っていた。
彼女もシンジと同じく、異文化との出会いに夢を抱いていた。
しかし、彼女はその夢を実現するために、互いの言葉と文化を学び、理解し合うことが大切だと考えていた。
アリスは日本語を必死に勉強し、日々の生活でシンジとの距離を埋めようと努力していた。
だが、シンジはそんな彼女の努力を見ようとはしなかった。
彼にとって、アプリがあれば十分だった。
アリスが日本語で話しかけても、シンジはスマホを取り出し、アプリに頼り続けた。
「シンジ、本当にそれで私たちが通じ合っていると思うの?」
アリスはある夜、静かに問いかけた。
「もちろんさ、アリス。今の時代、アプリがあるんだから、無理して言葉を学ばなくてもいいんだよ。すぐにもっとすごい技術が出てくるし、それまでの辛抱だよ」
シンジは軽く笑って、スマホを操作した。
アリスは、シンジが見ているのが自分ではなく、彼の理想の中にいる「アリス」であることに気づいた。
彼は彼女と向き合うことなく、ただ自分の理想を通じて彼女を見ていた。
ついにアリスは言った。
「シンジ、私はもう限界。あなたと本当の言葉で話せないなら、この結婚は意味がないわ」
シンジは一瞬戸惑ったが、すぐに「大丈夫だよ、アリス。時間が解決するさ」と返した。
彼はその言葉を信じていた。
すべては技術が解決してくれると。
アリスが出て行ってから、シンジは最初のうちは戸惑ったが、やがてアリスが帰ってくるだろうと楽観的に考えていた。
「そのうち彼女もわかってくれるはずだ。未来は俺たちの手にあるんだから」
彼はスマホを手に取り、いつものようにメッセージを送り続けた。
「アリス、話し合おうよ。アプリでさ」
しかし、アリスからの返信はなかった。
シンジは次第に孤独を感じるようになったが、それでも彼の行動原理は変わらなかった。
「アプリさえあれば大丈夫だ」と彼は信じ続けた。
そして、彼の世界はますます小さくなっていった。
彼は現実の人々との関係を避け、友人との会話もアプリを通じて行うようになった。
実際に人と会うことは次第に減り、シンジはアプリの中で「繋がっている」という幻想に閉じこもるようになった。
数ヶ月後、彼はふと気づいた。
「俺は誰と話しているんだ?」
周囲には誰もいない。
アリスも、友人たちも、すべてが彼の手の中のスマホの中でしか存在していなかった。
その時、彼は一瞬、強烈な孤独感に襲われたが、それをすぐにかき消した。
「大丈夫、アプリさえあれば」
彼はまたメッセージを打ち込み始めたが、その言葉は誰にも届かなかった。
彼はもはや、自分の理想と「翻訳された現実」の中でしか生きられない男になっていた。
最後に残ったのは、理想だけに閉じこもる孤独な男だった。