甘い蜜か、苦い現実か【ショートショート】
静かに生きるのも、楽じゃない
「まあ、何やっても意味ないよな」
フジイは蜂蜜の瓶を眺めながら、軽くため息をついた。
都会のトレーダーとして一時は成功したが、今は山奥でひっそりと養蜂をしている。
何をしても裏切られ、最終的に自分自身さえ信じられなくなった彼は、都会の喧騒から逃げ、ここに落ち着いた。
「蜂の方がよっぽど信用できる。裏切らないし、働くしか考えてないしな」
そう呟くフジイの言葉には、皮肉とどこか達観した響きがあった。
しかし、その実、彼は自分の無力さに囚われていた。
都会に戻りたくもないが、ここでの生活が「自分の選択」なのかすら分からない。
そんなフジイの元に、突然、昔の取引相手がやってきた。彼は開口一番、笑顔を見せて言った。
「フジイ!お前ならまた大成功できる!あの時みたいに一緒に稼ごうぜ!」
その言葉に、フジイの心がほんの一瞬だけ揺らいだ。
金を掴む興奮を知っている自分が、またその快感を手に入れられるかもしれない。
しかし、裏切りと失敗の記憶が、再び胸にのしかかってくる。
「もう、あの頃には戻りたくないんだ」
そう言いかけたその瞬間、取引相手はさらにしつこく食い下がる。
「ここでただの養蜂家として終わるつもりか?お前の才能をこんな場所で無駄にするのか?」
フジイの頭の中に迷いが走る。
「確かに、自分はここで腐ってるのかもしれない」
でも、それでもいいのか?
フジイは答えが出せず、ただ目の前に広がる山の静寂を見つめる。
突然、蜂の群れが二人の間を飛び交い始めた。
取引相手は驚いて後退し、慌てて蜂を振り払う。
「ちょ、ちょっと待て!蜂をどうにかしろよ!」
フジイは、彼を一瞥しながら静かに答えた。
「いや、俺は何もしてないよ。蜂はただ、働いてるだけだ」
蜂たちの存在が、フジイの迷いを静かに消していくのを感じる。
彼らは誰に命じられたわけでもない。
ただ、己の役割を黙々と果たしているだけだ。
それが彼らの生き方。
フジイもまた、そんなシンプルな生き方を選び始めていた。
「俺はもう、他人のために働くことはしない」
フジイはそう静かに言い放った。
かつてなら、取引相手の言葉に踊らされ、都会へ戻ることを考えていただろう。
しかし今、彼は蜂たちの働きに倣い、自分の力で自分の道を進む決意を固めていた。
「金のために生きるんじゃなくて、自分で選んだ生き方をする。それが俺の道だ」
取引相手は蜂の恐怖に何も言い返せず、山道を逃げるように去っていった。
フジイはその背中を見送りながら、ゆっくりと深呼吸をした。
そして、晴れ渡る空を見上げてこう呟いた。
「…それにしても、俺がこんなこと言うなんて、蜂も驚いてるだろうな」