進化するウイルス【ショートショート】
佐藤直哉(Naoya sato-)
コヨーテの小噺
僕は崖の端に立っていた。
風が鋭く吹き抜け、眼下には無限に広がる闇が蠢いている。
背後からは、追手の足音が遠くからかすかに響いていた。
ここで終わるかもしれないという考えが、脳裏に薄く滲んでいた。
しかし、僕はそれを追い払うように目を閉じた。
ポケットに手を突っ込むと、古びた金属の感触が指先に触れた。
それは父がいつも持ち歩いていたライターだった。
僕は煙草を吸わないが、このライターを手放すことはなかった。
父が去ってからも、僕はそれを肌身離さず持ち歩いていた。
何かを繋ぎ止めておくために。
ふと思い立ち、紙切れを取り出して「この場所には何かが隠されている」と書いた。
その紙の縁をライターで軽く炙り、焦げ目をつけて岩陰に差し込んだ。
まるで父がいつもしていたように。
そしてその行為には、ある種の決意が宿っていた。
何かを遺すこと、無意味の中に意味を見出すこと。
それが今の僕にできる唯一の反抗だった。
その後、奇跡的に救助された僕は、あのライターを手に、父のことを思い出した。
父もまた、人生のどこかで同じような行為をしたのかもしれない、と。
追手たちがあの紙を見つけたかどうかは知らないし、知る必要もなかった。
ただ、あのライターを握りしめるたびに、僕は何かが過ぎ去っていく音を感じた。
それは風か、それともただの幻聴か分からないが、確かに僕はそれを感じた。
そしてその音は、僕にとって奇妙に心地よいものだった。
ライターをポケットにしまい、僕は静かに歩き出した。
その音が遠くなっていくのを耳にしながら。