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【気づけば夜!?】“時間が飛ぶ”あの感覚の正体

佐藤直哉(Naoya sato-)
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はじめに

夜九時。

机の上には、飲みかけのコーヒーがあります。

今日の作業も、ひとまず終わりました。

「少しだけ動画を見るか」

一本目は、十分ほどの短い動画でした。

見終わると、その下に次の動画が表示されます。

「これも面白そうだな」

一本だけのつもりが、もう一本。

料理を見て、古い事件の解説を見て、壊れた機械が修理されていく様子を眺めます。

やがて、ふと部屋の静けさに気づきました。

コーヒーは冷えきっています。

壁の時計を見ると、短針は二の位置。

「午前二時?」

慌ててスマートフォンを確認します。

午前二時七分。

時計が壊れたわけではありません。

五時間は、最初から同じ速さで進んでいました。

それなのに、本人にはほんの少ししか経っていないように感じられます。

あの五時間は、どこへ消えたのでしょうか?

※本記事は筆者個人の感想をもとに、エンターテインメント目的で制作されています。

なぜ数時間を見失うのか?

午後一時。

時計を確認してから、机に向かいます。

「一時間だけ集中しよう」

文章を書き直し、資料を調べ、また文章へ戻る。

気になる箇所を見つけるたびに、次の作業が生まれます。

「ここだけ直したら休もう」

ようやく顔を上げると、窓の外は暗くなっていました。

時計は午後五時半。

「一時間のつもりだったのに……」

時間を感じるには、ときどき作業から意識を離して、「どのくらい経っただろう」と確かめる必要があります。

ところが、夢中になっている間は、注意が目の前の作業へ使われています。
時間を確認しないまま次の作業へ移るため、数時間がひとまとまりに感じられるのです。

退屈な待合室では、反対のことが起こります。

することがないので、時計を見る。

少し待って、また時計を見る。

「まだ一分しか経っていない」

退屈な一分が長いのは、時間を何度も確認しているからです。

夢中な四時間が短いのは、その四時間をほとんど確認していなかったからです。

脳の時計が止まったわけではありません。

時間より、目の前のことを見ていたのです。

「次でやめる」が終わらない

作業に夢中になることと、動画を見続けることには、大きな違いがあります。

絵を描いている人には、完成という終点があります。

「ここを塗れば終わりだ」

文章にも、最後の一行があります。
本にも、最後のページがあります。
ところが、短い動画やSNSには終点がありません。

一本が終わると、次の一本が表示されます。

「これを見たらやめよう」

見終わった瞬間には、すでに別の動画が始まっています。

「では、これで最後」

その言葉も、何度目なのか分かりません。

映画なら、エンドロールが流れます。
テレビ番組なら、放送が終わります。

しかし、次の内容が自動で現れる画面では、「ここで終わり」と知らせるものがありません。

時間を見失う原因は、面白さだけではないのです。
やめようと思うたびに、次の入口が開いてしまいます。

一本の動画が五時間を奪ったわけではありません。

終わりのない「あと一本」が、五時間続いたのです。

過ぎる時間と、残る時間

友人と町を歩いていると、時間を忘れます。

知らない店へ入り、道に迷い、偶然見つけた喫茶店で休みます。

「そろそろ昼にする?」

友人が時計を確認します。

「もう三時だよ」

その最中は、あっという間です。

けれど夜になると、朝から多くのことをしたように感じられます。

一方、何もせずに待っていた一時間は、過ごしている最中には長く感じます。

「まだ終わらないのか」

ところが数日後には、その一時間をほとんど思い出せません。

ここで比べているのは、同じ時間ではありません。

一つは、過ごしている最中に感じる時間。

もう一つは、あとから振り返ったときに感じる時間です。

楽しい時間は、過ごしている最中には短くなります。

しかし、出来事が多ければ、あとからは長い一日として残ります。

反対に、退屈な時間はその場では長くても、何も起きなければ記憶にはほとんど残りません。

時計が示す長さは同じです。

それでも、過ぎる速さと記憶に残る長さは、別々に決まるのです。

恐怖で世界は遅くなるのか?

横断歩道を渡っていると、すぐ近くでタイヤが鳴ります。

「危ない!」

車は目の前で急停止。

ほんの数秒だったはずなのに、すべてがゆっくり動いたように感じます。

「あの瞬間だけ、時間が止まったんだ」

では、危険を感じると、本当に脳の処理が速くなるのでしょうか。

研究者は、参加者を高い場所から安全ネットへ落とす実験を行いました。

腕には、数字が高速で切り替わる装置を取りつけます。

普段は速すぎて読めません。

しかし、恐怖によって知覚の速度が上がるなら、落下中だけは数字を読み取れるはずです。

実験後、参加者は言いました。

「かなり長く落ちていた気がします」

けれど、数字は読めていませんでした。

落下時間は長く感じても、視覚の処理能力が上がった証拠は見つからなかったのです。

世界が本当にスローモーションになったのなら、普段は見えない数字まで見えていたはずです。

しかし、起きたのはそこまで都合のよい変化ではありませんでした。

恐怖は時間の感じ方を変えます。
だからといって、本人だけが高速で考え、ゆっくり動く世界を眺めていたわけではないのです。

最後に

午前二時。

動画を止めると、部屋には冷えたコーヒーと、五時間進んだ時計が残っています。

「時間が飛んだ」

そう言いたくなります。

けれど、時間はどこにも飛んでいません。

作業に夢中になれば、時計を見る回数が減る。

終わりのない動画を見続ければ、やめるきっかけを失う。

退屈な一分は長く、恐怖の数秒はさらに長く感じる。

僕たちが感じているのは、時計が刻んだ時間そのものではありません。

その時間に、どこへ注意を向けていたかです。

だから「気づけば夜だった」という言葉は、時間についての感想ではないのかもしれません。

その日、自分の注意を何に預けていたのか?

午前二時の時計は、それを何も言わずに示していたようです。

おまけの4コマ

ABOUT ME
佐藤直哉(Naoya sato-)
佐藤直哉(Naoya sato-)
ブロガー/小説家
文章を書くことを楽しむ自称・小説家です。
歴史や文化、日々の暮らしに潜む雑学を題材に、無駄雑学などの小噺を発信しています。
どうぞ、ふらりと覗いてみてください。
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