善人プログラム【ショートショート】

誰も怒らず、誰も傷つけず、誰も
――本音を語らない国

やさしさは、法律になった。
優しさが足りない人間は、犯罪者になった。
だから、みんなチップを埋められた。
正式名称は情動抑制インターフェース。
通称、善人プログラム。
耳のうしろ、髪の生え際あたり。
ちいさなインプラントが、神経に触れる。
怒ると、喉が焼けるように熱くなる。
嘘をつこうとすると、視界が暗くなる。
誰かを蹴ろうとしたら、膝が震えて立てなくなる。
それが、この国の「道徳」になった。

ソウマ・カイ。
34歳。職業:電送設備のメンテナンス。
ある夜、地下鉄の非常配電盤で漏電に遭った。
頭が“ぱちっ”と鳴った。
視界が裏返る音がした。
次の日から、
なにもかもが、少しだけズレて見えるようになった。

道端で財布を拾った。
警察に届けようとして、やめた。
手が震えなかった。
いつもの自販機で、120円のコーヒーを買った。
味が濃く感じられた。
それが、最初の異変だった。

チップが壊れたことに気づいたのは、
「違和感」じゃなく、「快感」のせいだった。
・笑って嘘をつく
・上司を煽てる
・すこし得をする
──そんな日々に、懐かしい“血の気”を感じた。
「こんなに頭って軽かったっけ」
と笑ったとき、ふと思った。
人間のやさしさって、どこからどこまでが“本物”なんだろう。

彼女ができた。
プログラム適合率99.9%。
“やさしさ”が板についている人だった。
雨の日、傘を半分差し出す。
湯呑みの縁を拭いてから渡す。
咳をしていると、黙ってのど飴を置く。
全部が、あたたかかった。
全部が、少しだけこわかった。
「……愛してるよ」
彼女はすこし黙って、目を伏せる。
静かな声で、こう言った。
「……ありがとう。
でも……ごめんなさい。
あなたの“愛してる”って、なんだか整いすぎてて……
少しだけ、怖くなったの」
その声は、風の抜ける音のようだった。
やさしくて、痛かった。

彼は、善人プログラムの再装着センターに行った。
無機質な廊下。
白い受付。
青い照明。
声のない空気。
「再インストールを希望されますか?」
「……はい」
「記憶は?」
「残してください」
「不快な感情と、整合しなくなりますが」
「それでも、伝わらないよりはマシです」
処置室のベッドに寝転んで、
天井の白い光を見ていると、
少しだけ、眠くなった。

その後、彼はまた“いい人”になった。
・ていねいに頭を下げる
・街のゴミを拾う
・相手の目を見てうなずく
プログラムは正常に作動している。
もう、嘘も怒りも感じない。
彼女は戻ってきた。
何も疑わなかった。
その笑顔に、彼はうなずいた。
言葉は、なかった。

ニュースキャスターが言った。
「わたしたちの社会は、ついに争いを終えました」
「理想に、手が届きました」
スタジオが拍手に包まれる。
モニターの中の彼が、言った。
「ええ。ほんとうに。
毎日が、とても穏やかです」
その瞬間、
誰も気づかなかったけれど、
彼の左目が、
ほんのすこしだけ、涙で濡れていた。
それはたぶん、
まだどこかに残っていた、
“壊れる前の自分”が、最後に流したものだった。
