仕事狂【ショートショート】
会社は消えても、仕事は消えない
深夜のオフィスは、水槽の底のようだった。
空調の低い唸りが、耳鳴りのように響く。
蛍光灯の冷たい光が、机の書類を青白く照らしていた。
スズキはキーボードを叩き続ける。
デスクには、山積みのファイル、空のカップ麺、そして彼の執念だけが残っている。
「これも頼むぞ」と部長が無造作に置いた資料に、スズキは無言で頷いた。
夕方のオフィスにはまだ人の気配があったが、今では静寂が支配している。
スズキにとって、この時間帯こそが理想だった。
スズキには、仕事に打ち込む理由があった。
高校時代、彼は父親の破産を目の当たりにした。
突然の事業失敗と、多額の借金。
家族の生活は一変した。
その日から父親は、口癖のようにこう言い続けた。
「俺がもっと働いていれば、家族を守れたのに…」
その言葉は、若いスズキにとって呪いのようだった。
父親が涙ながらに仕事探しを続ける背中を見て、彼はこう誓った。
「絶対に俺は失敗しない。働き続ければ、すべてが解決する」
大学では、学費を稼ぐために昼夜問わずアルバイトを掛け持ちした。
社会人になってからは、どんなに過酷な環境でも不満を言わず、黙々と働き続けた。
『働いていれば大丈夫』――その信念だけが彼を支えていた。
夜が白み始める頃、スズキは完成した資料を抱えた。
疲労感はあるはずだが、足取りは妙に軽い。
「これでまた一歩前進だ」
自信を込めた呟きと共に、部長の机へ資料を置いた。
だが翌朝、スズキはオフィスの異常な様子に気づいた。
部長の机は空っぽで、社員たちが集まる会議室では重い空気が漂っている。
「スズキさん、聞きましたか?」
同期のサカモトが青ざめた顔で話しかけてきた。
「労基が昨日、調査に入ったみたいです。社員の何人かが、働きすぎで倒れてるって通報したらしくて…」
スズキは顔をしかめた。
「通報…?」
その瞬間、数日前に泣きながら退職した新入社員の顔が脳裏に浮かんだ。
「で、結果どうなったんだ?」
スズキは冷静を装いながら尋ねた。
サカモトは肩をすくめ、声を落とした。
「会社、潰れるらしいです。違法労働の証拠が山ほど見つかったって…。取引先も一斉に手を引いてるらしくて」
スズキは、数秒間無言で立ち尽くした。
そしてふっと、微笑みを浮かべた。
「なるほどな…」
スズキは席に戻ると、椅子に腰掛けた。
机の引き出しから新しいノートを取り出し、見開きにこう書き込む。
『プロジェクト名:新会社設立計画』
彼は新しい書類を準備し、頭を掻きながら独り言をつぶやいた。
「まあ、会社がなくなったのは残念だけど…仕事がある限り、俺は生きていける」
笑顔を浮かべながらキーボードを叩き続けるスズキの姿に、朝日が差し込む。
「会社が無くなっても仕事は永遠だ」
キーボードを叩く音が静かなオフィスに響き渡る中、スズキの心には迷いがなかった。