至福の静寂【ショートショート】
楽を求めた先に待つ、静かな無
彼が退屈という感情に囚われ始めたのは、ある静かな朝だった。
目覚めてからずっと、何も変わらない日常が続くことに耐え難い虚無感を覚えていた。
「もし、すべての時間が楽しさで満たされていたら、誰も何かを成し遂げようと努力しなくても、満足するのではないか」
彼はその考えに取り憑かれた。
それは光のように彼の中で膨らみ、いつしか唯一の信念となった。
彼はその信念に基づいて、究極の娯楽装置を開発することに没頭した。
どんな瞬間でも人々を夢中にさせ、退屈という概念を完全に消し去る魔法の箱だった。
装置が世に出ると、人々はそれに飛びつき、社会全体が急速に変わり始めた。
誰もが装置の前で時間を費やし、仕事も学びも放棄し、ただその瞬間の楽しさに溺れていった。
しかし、彼はその変化を見守るうちに、次第に不安を覚え始めた。
街は無音で、笑い声も消え、人々の目は次第に虚ろになっていった。
友人たちは会話を忘れ、家族はそれぞれの装置に夢中になり、誰も彼に目を向けなくなった。
創造性や革新は影を潜め、世界はゆっくりと停滞していった。
彼は「楽しい時間だけがあれば、すべてがうまくいく」と信じていたが、その考えが崩れ落ちるのを感じた。
ある夜、彼は静まり返った部屋で、自分が世界から取り残されていく感覚に襲われた。
自分が作り出したものに、全てを奪われたのだ。
彼はとうとう自らも装置に救いを求める決心をした。
装置を手に取った瞬間、その冷たい金属の感触が彼にかつての情熱を思い出させたが、同時に何かが決定的に失われたことも痛感した。
彼は目を閉じ、装置を頭に装着した。
その瞬間、深い森の中に迷い込んだような重い静寂が彼を包み込んだ。
思考は薄れ、彼の意識は徐々に消えていった。
「これで、すべてが楽になるはずだったのに」と彼は最後に思ったが、その思いは霧のように消え去り、彼の存在も同時に消えていった。
彼の存在が消えたあと、部屋にはただ冷たい静寂だけが残った。
世界はそのまま回り続け、誰も彼のことを思い出すことはなかった。