ノストラダムスより漫画の方が未来を当てているのでは?
はじめに

世界が終わるなら、宿題はしなくていい?
1999年7月。
テレビでは、ノストラダムスの予言が何度も取り上げられていました。
「1999年、7の月」
大災害が起きる。
世界が終わる。
そんな話まで広がっていました。
テレビを見ていた子どもが、母親に聞きます。
「じゃあ、夏休みの宿題はやらなくていい?」
母親は答えます。
「8月になったら困るでしょ」
そして8月。
世界は普通に続きました。
夏休みも続きました。
宿題も、きちんと残っていました。
ノストラダムスの予言には、今でもさまざまな解釈があります。
ただ、少なくとも1999年7月に、誰が見ても分かる形で世界が終わったわけではありません。
では、昔の人が想像した未来は、どれも同じくらい外れていたのでしょうか?
古い漫画を開くと、少し違う景色が出てきます。
※本記事は筆者個人の感想をもとにエンターテインメント目的で制作されています。
漫画ではロボットと生活している

1952年。
『鉄腕アトム』の連載が始まります。
漫画の中では、ロボットが人間と話します。
学校へ行きます。
友達を作ります。
ときには、人間と衝突します。
当時の読者にとっては、完全な未来の話でした。
ところが今読むと、少し印象が変わります。
AIと会話する。
人型ロボットを開発する。
機械に、どこまで判断を任せるべきか考える。
アトムそのものは、まだ現れていません。
それでも、
「人間と機械は、どう付き合えばいいのか?」
という問題は、
もう漫画の中だけの話ではありません。
ロボットはまだアトムになっていませんが、僕たちの悩みは少しずつアトムの世界に近づいています。
そして、外へ出ると、もっと分かりやすい未来があります。
100年前の人を、朝の駅に連れてきたら

朝8時。
駅のホームには、大勢の人が並んでいます。
その多くが、手元を見ています。
持っているのはスマホです。
ニュースを読む。
地図を見る。
買い物をする。
仕事をする。
動画を見る。
友達と話す。
お金まで払う。
ほとんどのことが、小さな画面の中で済みます。
もし100年前の人がこの光景を見たら、たぶん聞くでしょう。
「その小さな板で、何をしているんですか?」
答えるなら、
「だいたい何でもです」
になります。
昔なら、立派なSFです。
今では、ただの朝の風景です。
未来というものは、やって来た瞬間だけ未来に見えます。
慣れてしまえば、生活の一部になります。
では、漫画家たちは、なぜそんな未来を先に描けたのでしょうか?
漫画家は、未来を見ていたわけではない

夜。
漫画家が机に向かっています。
目の前にあるのは、原稿用紙と鉛筆。
未来を見るための道具はありません。
そこで考えます。
「電話が、もっと便利になったらどうなる?」
「機械が、もっと賢くなったら?」
「ロボットが、人間と一緒に暮らしたら?」
やっていることは、未来を見ることではありません。
今あるものの続きを考えています。
今の技術が伸びたら、どうなるのか?
人間は、それをどう使うのか?
そこまで考えて、絵にする。
だから漫画には、未来の形が残ります。
道具の使い方も残ります。
そのせいで困る人間まで描かれます。
ただし、具体的に描くと、困ることもあります。
外れたときに、すぐ分かるのです。
21世紀、思っていたより地味だった

昔の漫画やSFが描いた21世紀。
空には車が飛んでいます。
街ではロボットが働いています。
人間は、気軽に宇宙へ出かけています。
では現在。
車は、まだ道路を走っています。
朝の電車は混んでいます。
ゴミも、自分で出します。
未来、思っていたより普通です。
漫画家も、未来をかなり外しています。
ただ、漫画の場合はごまかせません。
絵が残っているからです。
空飛ぶ車を描いた。
実際には飛んでいない。
それなら外れです。
とても分かりやすい。
予言の場合は、もう少し事情が違います。
「東に大きな炎が現れる」は、かなり便利

たとえば、古い予言書にこう書かれていたとします。
「東の地に、大きな炎が現れる」
火事。
噴火。
爆発。
戦争。
ロケット。
いろいろな出来事に当てはめられます。
何か大きな事件が起きたあとで、その文章を読み返します。
すると、
「これのことでは?」
と言えるかもしれません。
一方で、漫画家が、
「2035年には、家庭用ロボットが毎朝ご飯を作っている」
と描いたらどうでしょう。
2035年になっても、そんなロボットがいなければ、
かなり分かりやすく外れです。
漫画の未来予想は、予言よりも逃げ道が少ない。
それでも、ときどき現実の方が漫画へ近づいてきます。
なぜでしょうか?
「こんなの欲しい」が、研究室までついてくる

子どもが、ロボット漫画を読んでいます。
ページの中では、
ロボットが歩き、
人間と話し、
人を助けています。
子どもはページから顔を上げて言います。
「こんなの、本当にいたらいいのに」
その日は、それで終わります。
漫画を閉じて、
夕飯を食べて、
次の日には学校へ行きます。
でも、
頭の片隅には残ります。
「ロボットって、どうやったら動くんだろう」
中学生になる。
工作をする。
高校生になる。
機械やコンピューターに興味を持つ。
大学では、
ロボットの研究室を選ぶ。
そして何十年後。
机の上にあるのは、
漫画ではありません。
モーター。
センサー。
カメラ。
コンピューター。
目の前には、
まだぎこちなく歩くロボットがいます。
研究者が、その動きを見ながら言います。
「もう少し人間みたいに歩かせたいな」
子どもの頃に見た未来を、
今度は自分の手で近づけようとしています。
もちろん、
すべての研究者が漫画を読んで研究を始めたわけではありません。
それでもSFや漫画には、
「まだ存在しないものを、先に見せる」
という力があります。
見たことのない未来でも、
一度絵になれば、
「こんなの作れないかな」
と考えられます。
ここまで来ると、
漫画が未来を当てたのか、
漫画を読んだ人たちが未来をそちらへ動かしたのか、
少し分からなくなってきます。
最後に

研究室。
人型ロボットが、
ゆっくり歩いています。
一歩。
二歩。
三歩目で、
転びました。
見学に来ていた子どもが聞きます。
「いつになったら、漫画みたいに動くの?」
研究者は、
倒れたロボットを起こしながら答えます。
「まだ時間はかかるね」
そのあと、
もう一度スイッチを入れます。
ロボットが立ち上がります。
昔の漫画では、
ロボットは人間と話し、
走り、
空まで飛びました。
今は、
まだそこまでできません。
それでも、
何十年も前に漫画で描かれたものを、
今の人たちは本気で作ろうとしています。
ノストラダムスの予言は、
未来が来たあとで、
当たっていたかどうかを確かめます。
漫画の場合は、
まだ実現していなければ、
「じゃあ、どうやって作ろうか」
という話が始まります。
ロボットは、
もう一度歩きます。
今度は、
三歩目でも転びませんでした。
未来は、予言どおりになるものではなく、僕たちが少しずつ変えていけるものなのかもしれません。

