小噺ショート
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コーヒーの苦み【ショートショート】

佐藤直哉(Naoya sato-)
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知るほど、苦い

――そのコーヒーは、なんか変だった。

 香りはいい。
 見た目も普通。
 でも口に含んだ瞬間、妙なざらつきと、焦げたような風味が舌に残った。

「これ、インスタントじゃないのか?」

 男は店員に声をかけた。

 店員は無表情でうなずいた。

「はい。原価は20円です」

「じゃあ、この600円って……」

「“気づかないための代金”が含まれております」

 店員の言葉に、男は小さく笑った。
 冗談だろうと思ったからだ。

 でも、周囲の客を見て、笑いは消えた。

 誰も、飲んでいなかった。
 カップを手に写真を撮り、スマホをいじり、笑い合っている。
 だが、口をつけている者は一人もいない。

 まるで、飲んだら何かが壊れると知っているかのように。

「皆さん、気づかないまま、店を出られるんです」

 そう言った店員の声は、どこか哀しげだった。

「でも、あなたは飲んでしまった」

「だから?」

「戻れなくなった。“現実”に」

 男は思わず立ち上がった。
「おかしいだろ。こんなのただのコーヒーだ」

「違います。これは、“あなたが信じていたもの”の味です」

「は?」

「便利な社会、正直者が報われる世界、努力が実ると信じて疑わなかった人生。それらすべてを、一口で崩す飲み物です」 

 ジャズが止まった。
 カフェは静まり返る。
 男は、自分の心臓の音がうるさくてたまらなかった。

「これが真実って言いたいのか」

「ええ。でも、ほとんどの人は飲まずに済みます。見るだけで満足して、気づかないふりをして、帰っていく。とても健全な選択です」

「だったら、俺も忘れさせろよ。さっきの一杯、なかったことにしてくれ」

「できますよ。“おかわり”をどうぞ」

 新しいカップが置かれた。
 黒い液体が波紋を描く。

「これを飲めば、元通りになります。何も知らずに、笑って生きられる」

 男は見つめた。
 その波紋の向こうに、自分の顔が映っていた。

 無力な目。
 受け入れるのか、戦うのか。
 自分ですら判断のつかない曖昧な表情。

「飲んだら楽になるのか?」

「ええ。ですが、二度と本当の味はわからなくなります」

 男はカップに手をかけた。
 だが、その手を止める。

「……もういい」

 立ち上がった。
 席を離れ、扉に向かう。

「どこへ?」

「分からないさ。でも、ここじゃないことは確かだ」

「現実は、痛いですよ」

 店員が言った。

 男は振り向きもしなかった。

「痛くても、誰かが生きなきゃ、真実なんか残らない」

扉が開き、光が差し込む。

 その日、男が向かった先のことは誰も知らない。
 ただひとつ確かなのは、
 あの日から、そのカフェの入り口には、こんな札が下げられた。

「当店のコーヒーは、真実を含みます。苦味が強めですのでご注意ください」

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佐藤直哉(Naoya sato-)
佐藤直哉(Naoya sato-)
ブロガー/小説家
小説を書いていたはずが、いつの間にか「調べたこと」や「感じた違和感」を残しておきたくなりました。
このサイトでは、歴史の中に埋もれた謎や、日常でふと引っかかる“気になる話”をもとに、雑学記事、4コマ漫画、風刺ショートショートとして発信しています。
テーマはちょっと真面目。
でも、語り口はすこし皮肉で、たまにユーモア。
「なんかどうでもよさそうなのに、気になる」
──そんな話を集めて、掘って、遊んでいます。
読んだ人の中に“ひとつくらい、誰かに話したくなる話”が残れば嬉しく思います。
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