ゲームの話
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敵はどこへ消えた?──ゲーム世界が“あとかた”を残さない本当の理由

佐藤直哉(Naoya sato-)
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はじめに

画面いっぱいに現れた敵をバシッと倒すと、次の瞬間、ふっと煙のように消える。

骨も残らず、血も流れず、まるで最初から存在しなかったかのように。

あれはよく考えると、かなり不思議な光景です。
もし現実世界でそんなことが起きたら、ニュース番組は特集を組み、学会は一晩で十本の論文を出すでしょう。

消える人類。
SF映画なら三部作確定です。

なのに僕たちは、ゲームの中で敵が消えることにほとんど違和感を覚えません。
むしろ、残られると少し困る。
歩くたびに死体につまずき、「あれ、これ誰の?」と自分の戦績を振り返る羽目になるからです。

つまり「敵が消える」は不自然なのではなく、実はものすごく自然な設計なのです。

※本記事は筆者個人の感想をもとにエンターテインメント目的で制作されています。

死体は重たい(物理的にも精神的にも)

ゲームにおいて、敵は倒された瞬間に一番忙しくなります。

死亡アニメーション、物理演算、当たり判定の消去、アイテムのドロップ、効果音、ログ処理……まるで引っ越し当日のような後片付けラッシュです。

とくにレトロゲーム時代は切実でした。
ファミコンでは、1本の横線に8体以上のキャラを表示できないという厳しい制約があったからです。

敵を倒しても画面に残していたら、次の敵が表示できず、ちらついたり、消えたり、最終的にはゲームそのものが「ちょっと無理です」と音を上げます。

現代の3Dゲームでも事情は似ています。

死体はポリゴンの塊であると同時に、物理演算のかたまりです。
関節がぐにゃっと曲がり、床に倒れ、光を反射し、影を落とす。
つまり、ただのオブジェクトより数倍コストがかかる存在なのです。

開発者の間では「敵は倒した瞬間が一番重い」という冗談のような本音が語られています。

だから多くのゲームは、一定時間が経つと敵を光に変え、砂に変え、煙に変え、そして消す。

これは冷酷な判断ではなく、サーバーとプレイヤーの平和を守るための優しさです。

煙になると罪が軽くなる(不思議な倫理学)

もう一つの理由は、表現の問題です。
もし敵が倒れ、血を流し、動かなくなり、そのまま画面に残ったらどうでしょう?

急にゲームはドキュメンタリー番組のようになります。
プレイヤーは「敵を倒した」ではなく「誰かを殺した」という実感を抱くかもしれません。

そこで多くのゲームは、敵を「消す」ことで現実感を薄めます。
光の粒子、黒い煙、泡、エフェクト。
人間ではなく、システムとしての存在に変えるのです。

海外のレーティング基準には、「一瞬で消えたり、元に戻ったりする表現は、強い暴力表現とはみなさない」という考え方があります。

つまり、煙になって消えれば問題になりにくく、体が残れば規制対象になりやすいということです。なぜなら現実の出来事というより、魔法の演出として処理されるからです。

実際、地域によっては血の色が変えられたり、敵が燃えて消える演出に差し替えられたりしています。

「倒した」という事実は変えず、「見え方」だけを調整する。

まるで料理の盛り付けです。
同じ食材でも、皿に並べるか、ミキサーにかけるかで、印象はまるで違います。

画面はいつも掃除された居間であれ

戦闘が終わったあと、画面に死体がゴロゴロ転がっていたらどうなるでしょう。

どれが敵で、どれが壁で、どれが拾えるアイテムなのか、一瞬わからなくなります。
プレイヤーは進むべき道ではなく、死体の山を眺めて立ち止まります。
テンポは止まり、気分は「掃除当番」に近づきます。

アクションゲームはリズムが命です。
攻撃、回避、勝利、次へ。
敵が消えることで、画面はリセットされ、物語は前に進みます。

逆に、死体が残るゲームもあります。
ステルスゲームでは死体を隠すことが戦略になり、シミュレーションゲームでは腐敗が問題になります。

つまり「残す」こと自体が遊びになる場合だけ、あえて残すのです。

残すか、消すか。
それはリアルかどうかではなく、面白いかどうかで決められているのです。

五感で見る「消える瞬間」

薄暗い洞窟の中。
剣を振ると、金属と骨がぶつかるような鈍い音が響きます。
コントローラーが小さく震え、指先にその衝撃が伝わる。

敵は一歩後ろによろめき、赤いエフェクトをまとい、ふっと光の粒になって宙にほどけます。シャラシャラという音とともに、空気に溶けるように消えていく。

残るのは静けさと、自分の呼吸音だけ。

もしそこに倒れた体が横たわっていたら、この瞬間は少し違ったものになるでしょう。
達成感よりも、後味のような何かが残るかもしれません。

消える演出は、勝利を「爽やかな風」に変える魔法なのです。

消える文化は、ゲームの礼儀作法

敵が消えるのは、開発者がサボっているから……ではありません。
むしろ逆です。
全力で考えた結果、「消す」という結論にたどり着いています。

処理は軽くしたい。
表現はきつくしたくない。
テンポは落としたくない。

この三つを同時に成立させる方法を何十年も考え続けた結果が、「敵はあとかたもなく消える」なのです。
シンプルですが、かなり頭のいい答えです。

よく考えると、これってゲームだけの話ではありません。
演劇では舞台が暗転すると、さっきまで倒れていた役者さんはいなくなりますし、スポーツでも試合が終わればフィールドはきれいに片付けられます。

いつまでも残るのはスコアと記録だけ。現場は次の物語のために空けておく。
実に大人の対応です。

ゲームも同じです。
敵が消えるのは「なかったことにする」ためではありません。

「次へ進む準備ができましたよ」という合図なのです。
更新ボタンを押したようなものだと思えば、少し納得できる気がしませんか。

最後に

光になっていくもの

敵が消える瞬間、画面はほんの少しだけ明るくなります。
あれはただの演出なのに、不思議と「よし、次に行こうか」という気分にさせてくれます。

技術の事情であり、表現の配慮であり、テンポの工夫でもある。
でも同時に、あの光はプレイヤーへの合図でもあります。
「ここで立ち止まらなくていい」
「先に進んでいい」
と。

一方、現実の世界はなかなか親切ではありません。
失敗も、後悔も、部屋の隅に積んだ段ボールも、いつまでも居座ります。
消えてくれたら助かるのに、と思うものほど残る。
なかなか手強い仕様です。

だからゲームの中で敵が光になって消えるのを見ると、僕たちは少し安心するのかもしれません。世界が軽くなり、視界が開け、物語がもう一歩だけ前に進む。

消える敵は、空白ではなく余白です。
次の出来事が入り込むためのスペースです。

そして僕たちは今日も、何かを倒し、何かを置いていき、コントローラーを握ったまま次の画面へ進みます。

現実では消えないものを抱えつつ、せめて画面の中では、きれいに光へ変えながら。

ABOUT ME
佐藤直哉(Naoya sato-)
佐藤直哉(Naoya sato-)
ブロガー/小説家
文章を書くことを楽しむ自称・小説家です。
歴史や文化、日々の暮らしに潜む雑学を題材に、小噺を発信しています。
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