ネットミームはなぜ生まれるのか? 一枚の画像が「みんなのネタ」に変わるまで
はじめに

友人から、一枚の画像が送られてきました。
疲れ切った顔で、机に突っ伏している人物です。
画像には、こんな言葉が添えられています。
「月曜日の朝」
それを見た別の友人が、文字だけを替えました。
「会議が始まる三分前」
さらに別の人も続きます。
「明日が締め切りだと気づいた夜」
最初はただの一枚だった画像が、いつの間にか全員で使うお決まりのネタになっています。
誰も使い方を説明していません。
それでも全員が、「この画像はこう使うものだ」と理解しています。
ネットミームは、誰かが完成させて投稿する作品ではありません。
他人がまねをし始めたときに、初めて生まれるものなのです。
※本記事は筆者個人の感想をもとにエンターテインメント目的で制作されています。
一人ではミームを作れない

「ミーム」という言葉を作ったのは、生物学者のリチャード・ドーキンス氏と言われています。
1976年に刊行された『利己的な遺伝子』の中で、歌の旋律、流行語、服装など、人から人へ模倣によって伝わる文化をミームと呼びました。
そのため、人気になった画像がすべてネットミームになるわけではありません。
一つの動画が百万人に見られても、同じものが再生されているだけなら、それは大きな話題になった動画です。
ところが、誰かがその動画の動きをまねし、別の人が言葉を替え、さらに別の人が違う場面で使い始めると、話が変わります。
最初の投稿は、まだ材料です。
それを見た人が、
「これ、自分にも使えそうだ」
と思った瞬間から、ミームとしての広がりが始まります。
使いたくなる画像には余白がある

ある男性が、何とも言えない顔で遠くを見ています。
困っているようにも見える。
あきれているようにも見える。
何かを諦めたようにも見える。
この曖昧さが、ネットミームでは大きな強みになります。
「給料日前の僕」
「電車が目の前で発車したとき」
「冷蔵庫を開けたら何もなかった」
同じ表情でも、添える言葉によってさまざまな場面へ使えます。
反対に、何が起きているのか画像だけですべて分かってしまうと、他の人が付け加える場所がありません。
意味がなさすぎても伝わらない。
意味が決まりすぎていても使いにくい。
見れば何となく分かるのに、別の意味にも変えられる。
ネットミームになる画像には、他人が自分の経験を書き込める余白が残っているのです。
言いにくい気持ちを代わりに話す

仕事で失敗した夜、友人からメッセージが届きます。
「今日どうだった?」
正直に説明しようとすれば、長い話になります。
「朝から予定が変わって、それから資料に間違いが見つかって、上司にも呼ばれて……」
文字にするだけで、もう一度疲れてしまいそうです。
そこで、床に倒れ込んでいる人物の画像を一枚送ります。
友人からは、すぐに返事が来ました。
「そんなにひどかったのか?」
詳しく説明していないのに、だいたいの気持ちは伝わっています。
ネットミームは、言葉にしにくい疲れ、不安、恥ずかしさを代わりに話してくれます。
深刻な愚痴として送るのはためらわれても、冗談に変えれば誰かに見せられます。
不安な出来事を扱ったミームの研究でも、笑いには、同じ状況にいる人とのつながりを感じたり、現実に振り回される感覚を和らげたりする働きがあると指摘されています。
問題は消えません。
それでも、誰かと笑えれば、一人で抱えている気持ちは少しだけ軽くなるのです。
「分かる」が仲間の合図になる

昼休み、三人がスマートフォンを見て笑っています。
そこへ来た人が、画面をのぞき込みました。
「何が面白いの?」
一人が答えます。
「昨日の会議を知っていたら分かるよ」
画像だけを見ても、特別に面白いわけではありません。
しかし、三人には共通の出来事があります。
だから短い言葉だけで、昨日の光景を思い出して笑えるのです。
ネットミームには、こうした「分かる人だけが分かる」性質があります。
元になった作品を知っている。
同じ仕事を経験している。
その集団だけの言い回しを理解している。
ミームを見て笑うことは、「自分も同じものを知っている」という合図になります。
ただし、仲間を近づけるものは、知らない人を遠ざけることもあります。
内輪ネタは、仲間にとっては合言葉です。
けれど、事情を知らない人には、鍵のかかった言葉に見えるのです。
少しずつ変わるから広がっていく

最初の人が「月曜日の朝」と書く。
次の人が「会議の直前」に替える。
別の人が「試験結果を見る瞬間」に作り直す。
画像の基本的な使い方は同じですが、内容は少しずつ変わっています。
ネットミームは、まったく同じものをコピーするだけでは長く続きません。
すべて同じなら、最初の投稿を共有すれば済むからです。
一方、何もかも変えてしまえば、元のミームだと気づいてもらえません。
見覚えがあるのに、使い方が少し違う。
その小さな変化が、見る人の笑いや驚きを生みます。
さらに、同じ形式を何人もの人が使い始めると、まだ参加していなかった人にも使い方が見えてきます。
「なるほど。この画像には、自分が絶望した瞬間を書けばいいのか」
そう理解した人が新しい一枚を作り、また別の誰かへ渡します。
ネットミームは、正確にコピーされるから増えるのではありません。
一人ひとりが自分の経験に合わせて、少しずつ作り替えるから増えていくのです。
最後に

最初に「月曜日の朝」と書いた人は、その画像がどこまで広がるのか想像していなかったはずです。
別の会社では「会議が始まる三分前」に変わり、どこかの学校では「試験結果を見る瞬間」に変わる。
同じ画像の中へ、それぞれが自分の一日を持ち込んでいきます。
やがて流行が過ぎれば、その画像を使う人も少なくなるでしょう。
何年か後には、なぜ面白かったのかさえ分からなくなるかもしれません。
それでも、短い流行の間には、顔も名前も知らない人たちが同じ一枚を見て笑っていました。
「疲れているのは自分だけではなかった」
「こんなことで困っているのは自分だけではなかった」
そのことを、長い言葉を交わさなくても確かめられたのです。

「月曜日の朝」と書かれた一枚の向こうには、同じ朝を迎え、同じようにため息をついた、名前も知らない誰かがいます。
ネットミームが僕たちに見せているのは、そんな他人との意外な近さなのではないでしょうか?

