海外が惚れ込む「日本ゲームの芸術性」──その正体はどこにある?
はじめに

「え、ゲームって芸術なの?」
昔ならこう言われたかもしれませんが、いまや世界の流れは逆方向。
ニューヨーク近代美術館(MoMA)やスミソニアン美術館がゲームを収蔵・展示し、そこには日本発のタイトルも並んでいます。
つまり、海外の偉い人たちは本気でこう言っているわけです。
「ゲーム?もちろんアートですよ?」
特に日本のゲームは、しょっちゅう “art, masterpiece, poetic(詩的)” といった言葉で語られます。
こちらとしては「いやいや、こっちは休日にダンジョン潜ってるだけなんですけど…」という気持ちですが、なぜここまで“芸術扱い”されるのでしょうか。
※本記事は筆者個人の感想をもとにエンターテインメント目的で制作されています。
日本ゲーム、気づけば美術館デビューしていた件

まず、ゲームが「芸術」扱いされるようになった象徴的な出来事として、
- MoMAがゲーム作品を収蔵
- スミソニアンが「The Art of Video Games」展を開催
といった動きがあります。
ここで重要なのは、「グラフィックがリアルだから芸術」とかそんな浅い話ではないことです。
美術館側が評価しているのは、
- インタラクション(操作)
- 物語・世界観
- テクノロジーとデザインの融合
といった“総合芸術”としての側面。
そこに、日本のゲームがけっこうな割合で混ざっている。
つまり世界的には、
「日本のゲーム、なんかよくわからんけど、やたら表現のレベルが高いぞ…」
という認識が、じわじわ定着しているわけです。
海外が「これはアートだ」と言い出した代表作たち

じゃあ、具体的にどんな日本ゲームが「芸術」っぽく語られているのか。
名前を挙げてみましょう。
ワンダと巨像:何もない広さが“意味深”になるゲーム
『Shadow of the Colossus(ワンダと巨像)』は、海外でしょっちゅう「ゲームをアートとして語るときの代表例」として引き合いに出されます。
- 広大でミニマルな景観
- ほとんど説明のない物語
- 16体の巨像との戦いだけ、というストイックな構成
画面の大部分は「風が吹いてるだけの草原」だったりするのに、プレイヤーはなぜか胸がぎゅっと締めつけられる。
何も起きていない“間”が、逆に物語を語ってしまう。
これ、まさに日本的な「間(ま)」や「もののあはれ」に通じる感覚です。
しかもゲームが終盤に向かうほど、「自分は本当に正しいことをしているのか?」という罪悪感まで抱かせてくる。
エンディングを見終わった後、しばらくコントローラーを握ったまま放心する人も多い作品です。
大神:プレイヤーが“筆”を握る日本画
『大神(おおかみ)』は、海外レビューで“every frame is like a painting(どのフレームも一枚の絵画のようだ)”と絶賛された一本。
- 水墨画風のグラフィック
- 浮世絵や神話モチーフの世界観
- プレイヤーが“筆”で世界を修復・攻撃するゲームシステム
つまり、「日本画の中に入り込んで、実際に筆を振るう体験」がゲームとして成立しているわけです。
これを芸術と言わず何と言うのか、というレベル。
海外のプレイヤーからすると、
「美術館で観てた“日本の絵”の中を、自分で動き回れるぞ……?」
という衝撃体験になります。
ゼルダ BotW:オープンワールドの“詩”
『ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド』は、「オープンワールドゲームの教科書」とまで呼ばれていますが、その評価は単なるボリューム自慢ではありません。
- BGMは控えめで、風や鳥の声が主役
- ミニマルなUIで、画面には広大な風景がほぼそのまま映る
- 物理・化学法則を活かしたシステムで、「そこにありそうな出来事」が自然に起こる
プレイヤーは“クエストをこなしている”というより、一枚の風景画の中を気ままに散歩している感覚に近くなります。
ときどきピアノの一音だけが鳴って、やたらと胸に刺さったりするあの感じ。
「旅そのものが作品になっている」タイプのゲームは、海外メディアでも“poetic(詩的)”と表現されがちです。
ニーア オートマタ:哲学書をプレイさせる
『NieR: Automata』は、海外の長文レビューや論文で、やたら難しそうな言葉と一緒に語られます。
- 実存主義
- ニヒリズム
- 自由意志とアイデンティティ
などなど。
「哲学書の目次かな?」というワードが並ぶのですが、すごいのはそれをテキストではなく“プレイ”で読ませてくるところです。
- 何度も死んでやり直すサイクル
- セーブデータを“誰かのために犠牲にする”ラストの選択
プレイヤーに「あなたは本当にそれを選びますか?」と問いかけてくる構造そのものが、アート作品的な仕掛けになっている。
確かにこのあたりまで来ると、「もう芸術でいいよ!」とツッコミたくなります。
日本的な美意識がゲームににじみ出る

ここで一度、日本の伝統的な美意識をざっくり整理してみましょう。
- わびさび:不完全さや古びたものに宿る美
- もののあはれ:移ろいや儚さへのセンチメンタルな感受性
- 間(ま):沈黙・空白そのものを意味あるものとして扱う感覚
これらは、茶道や俳句、庭園などで語られる概念ですが、日本のゲームにもかなり自然にしみ込んでいます。
- 『ワンダと巨像』の、何もない荒野と淡々とした時間の流れ
- 『大神』の、朽ちかけた自然を“筆”でよみがえらせる感覚
- 『ゼルダ BotW』の、静けさの中でふと訪れる小さな出来事

どれも、
「派手な演出で説明しないからこそ、プレイヤーの心の中で物語が完成する」
という作りになっているんですね。
海外プレイヤーからすると、この“余白の多さ”がかなり新鮮です。
説明されるより、「自分で感じ取ってしまった」体験のほうが強く記憶に残るので、結果として
「なんかよくわからんけど、あのゲームは“芸術っぽい”」
という評価につながりやすいのです。
作り手と受け手のズレ

「娯楽として作っただけなんですけど?」
面白いのは、日本側のクリエイターが必ずしも「アートを作ろう」と構えているわけではないことです。
たとえば『ICO』『ワンダと巨像』で知られる日本のクリエイターは、
- HUD(体力バーとか)を極力削る
- キャラクターやシステムを“引き算”していく
という「引き算の美学」で有名ですが、本人は「自分が面白いと感じる体験を形にしたい」というスタンスを繰り返し語っています。
さらに近年のインタビューでは、
「ゲームメカニクスの時代はすでに終わっている」
といった発言もしていて、
「新しいシステムを無理やり作るより、物語や雰囲気を磨き上げるほうが大事」
という方向性を示しています。

つまり、
- 斬新な遊び方をひたすら積み上げる、というより
- 感情や空気感をどれだけ濃くできるか
にフォーカスしている。
そりゃ海外の批評家も「これは映画や文学に近い文脈で語れるのでは?」と目を輝かせるわけです。

一方、別のクリエイター氏(『ニーア』シリーズ)は、
- 暴力と快楽
- 宗教・哲学・倫理
- 「意味のない世界でどう生きるか」
といった、なかなかに重たいテーマを、あえてゲームという媒体に落とし込んでいます。
しかも設定として語るだけでなく、
- マルチエンディング
- セーブデータの“犠牲”
といった仕掛けで、プレイヤーの選択そのものを問いに変えてしまう。
これもやっぱり、外側から見ると「めちゃくちゃアート」です。
でも当人たちはおそらく、
「重たいテーマを、人がちゃんと“遊べる形”にしたらこうなりました」
くらいの感覚に近いようです。
ここに、“作り手は娯楽のつもり、受け手は芸術として受け取る”というズレが生まれます。
西洋ゲームとの「文化的アプローチ」の違い

では、西洋のゲームと何が違うのでしょうか。
1. 誰の物語を生きるのか

ざっくり言うと、
- 西洋RPG:プレイヤー=主人公。選択肢で物語を自分色に染める。
- 日本のJRPG:決められた主人公の物語を、プレイヤーが追体験する。
という傾向があります。
西洋ゲームは「あなたならどうする?」というロールプレイ重視、日本のゲームは「このキャラの人生を見届けてくれ」というドラマ視聴に近いスタイル。
その結果、日本のゲームは
- キャラクターの心情描写
- 仲間との関係性
- クライマックスでの感情の爆発
に全力を振りがちです。
『ペルソナ』『ファイナルファンタジー』『ドラゴンクエスト』などを思い浮かべると、納得感があるかもしれません。
2. 「ヒーロー像」の違い

西洋のゲームでは、
- 世界を救う英雄
- 特殊部隊のエリート
- 選ばれし者
といった、「映画の主人公」タイプが多く登場します。
一方、日本のゲームは、
- ただの高校生
- どこにでもいそうな会社員
- 借金まみれのダメ人間(※褒めてます)
みたいな、日常寄りの人物が主人公になることが多い。
この「普通っぽさ」の中にある葛藤や成長を丁寧に描くスタイルは、海外プレイヤーにとって異文化ドラマとして映ります。
「ゲームの中くらい、もっとド派手なヒーローでいいじゃん」
という価値観の世界で、
「いや、普通の人が、普通じゃない状況をなんとか乗り切るのがエモいんですよ」
と言い出したのが日本側、という感じです。
3. ビジュアルと色彩のアプローチ

ビジュアル表現も違います。
- 日本のゲーム:
- 鮮やかな色彩
- 誇張されたデザイン(アニメ・マンガ的)
- 「現実そのもの」よりも、「こうだったらいいな」という理想化
- 西洋のゲーム:
- 抑えめの色合い
- 解剖学的にリアルな体型
- 実在しそうな街・人物をベースにした作り
海外プレイヤーからすると、日本のゲーム世界は「現実逃避にちょうどいい夢の世界」になりやすい。
そこに日本的な美意識が乗ると、
「これは単なるファンタジーというより、ひとつの美術作品として眺めていたい」
という領域に入り込むわけです。
だから海外で“芸術”になる

ここまでをざっくりまとめると、日本のゲームが海外で“芸術”と呼ばれる背景には、こんな要素が絡み合っています。
- 日本的な美意識(わびさび、もののあはれ、間)のにじみ出た表現
- 日常寄りの人物と感情にフォーカスした物語
- 余白の多い演出と、プレイヤーに委ねられた解釈
- 色彩豊かで様式化されたビジュアルデザイン
- 哲学的・倫理的テーマを“プレイ”で体験させる構造
作り手は「面白くて、心に残るゲームを作ろう」としているだけかもしれません。しかし、その“心に残る”の作り方が、日本独自の文化と感性に強く影響されているです。
そして世界の側は、その結果生まれた作品を眺めて、
「これはもう、芸術と呼んでいいでしょう」
とラベルを貼っている
──その距離感こそが、ちょっと面白いところです。
最後に

今日もコントローラーで絵筆を握る
最後に、こんな問いを置いておきたいと思います。
「芸術かどうかを決めるのは、いったい誰なのか?」
作者が「これはアートだ」と宣言した瞬間なのか。
美術館に飾られたときなのか。
それとも、プレイヤーがエンディング後もしばらく世界を思い出してしまう、その余韻の深さなのか。
少なくとも、日本のゲームは今日も、
- どこか寂しげな草原
- 静かな神社の境内
- ネオンまみれの街角
といった“バーチャルな風景”の中で、私たちの感情をじわじわとかき回してきます。
コントローラーを握るその手は、もしかしたら、一本の絵筆を握っているのとあまり変わらないのかもしれません。
ゲームを遊び終えたあと、ふと現実の景色が少しだけ違って見えたら
──それはもう立派に、「芸術と呼んでいい」体験だと思うのです。

